2008年6月26日 (木)

環境ブーム4 (最終回)

※今回を持ちまして、最終回とさせていただきます。

前回のエコツアーについて再度、梅雨の雨音を聞きながら考えている。そもそも「自然と人間との共生」を一人一人が理解すれば環境問題への意識は自然に高まっていくと思うが、現実的には難しい。学校という教育機関でも、非日常という特質を取り上げた旅行という形も敢えて外して、自然によって培われるものは何かという問いについての一つの試みが今回岩手・宮城地震の被災地となった栗駒高原にあるくりこま高原自然学校の活動である。

この学校は学校教育法に準じたいわゆる学校ではない。栗駒山のブナの原生林に囲まれて、スタッフたちと寄宿生とが共に生活を創造しながら、自然と共存する生き方を実践していこうという取り組みをしている。短いショートステイ的な自然活動体験ツアーみたいなプログラムから寄宿生活をしながら地元の学校に通学する山村留学のようなプログラムまで多彩なメニューがある。もちろん、営利優先な冒険学校のようなイベント的な要素lが少ない反面、日常生活に非日常的存在である、自然を取り込む、または自分が自然の一こまになって生活してみるという視点は確かに商業的なエコツアーにはないものを感じる。主宰者は人間の力がはるか及ばない自然の偉大さや厳しさから自らの生き様を再考しようという趣旨で設立したおしている。自然から享受するたくさんの本物の豊かさに感謝して活動し、個人でまたは集団で自然体験活動を行なうことを通してみえてくるものは何かという問いかけには都会での様々な人間関係に疲れた人々の心は響くかもしれない。ただし、集団逃避、またはノアの箱舟を彷彿させる違和感を筆者は感じたのも事実である。誰もが憧れる、平和で長閑な暮らしやわくわくする冒険は日々のあわただしさに埋没し、封印されがちな夢や希望をもう一度持てるような印象も持った。雨が嫌だとか、風が嫌だとか、雪が嫌だとか言っても、人間の感情に関係なく、雨が降り、風が吹き、雪が降る。「嫌なことや、辛いことを自分以外の誰かのせいにしたり、社会や環境のせいにすることが無意味なことを自然は教えてくれます。生きることは、取り組む人の心の有様が一番大事なことを教えてくれます。」という主宰者の文言には確かに魅力がある。しかしながら自然と共生した豊かな暮らしは、現実社会からの逃避、すなわち一時のシェルターにはなり得るが、再び世俗の世界に戻っていかざるをえない、大半の一般市民はどうなっていくのだろうかとふと不安になった。自然を大切に思う心というものは排気ガスとゴミにあふれた都会の片隅にもやがては浸透させていくのが本来のエコ活動であり、シェルターに安住することではないのではないかと筆者は思ったのである。時代は「エコ」を人間社会の未来には欠かすことはできないことであることと誰もが認めている。前にも述べたように3RReduceReuseRecycle)がクローズアップされている。企業も「エコ広告」を多く出すようになった。またエコは「一人一人の意識の持ち様で変わります」的なことをよく聞く。人の意識の持ち様というのを決定付けるのは何かと言えば、「教育」であろう。エコを考える上で、またエコを一過性のブームに終わらせないためには、エコを教育として根付かせる必要があるのは事実であると考える今まで教育という形では筆者の世代は環境問題を考える訓練を受けてきた記憶はほとんどない。しいてあげるとすれば例えば四大公害病とか光化学スモッグとか、高度経済成長の歪みたいなものは社会問題として学習した。しかしながら地球環境をどうしようというようなことはあまり考えなかったように思う。グリーンマークを集めるというのは活動は確かにあった。これはリサイクルの促進を目的にしたもので、マークを集めると学校がノートや苗木をもらうことができる仕組みである。ただこれも小学生時代筆者はベルマークとあまり区別がついていなかった。牛乳パックで再生紙を作ってみるというようなプログラムで地球環境への問題意識を皆で共有できるのかというのには多少の疑問がある

(記・岩松珠美)

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環境ブーム3

前回のエコツアーに対する日本人の捉え方からみても何か特別のこととして環境問題を意識しすぎているという印象を持つ。エコツアーの良さとして取り上げられていることの1つが非日常性である。つまり日本においては環境教育としてのエコツアーという色が濃いし、旅行としての要素も必要とされている。何か非日常さを出さないと、商品としてのツアー成立しないということは旅行会社の社員でなくても想像つく。しかし非日常を追求しすぎると人間本位のただの辺境地ツアーと同じになってしまう危険性があるに違いない。そのバランスにをどう取るのかに十分な取り組みがなされていけば一歩環境教育への扉をエコツアーによって開いていくのも可能ではなかろうかということである。

「環境問題を意識しすぎず、自然を大切にする」。ということは当たり前のようだけど、ほんとうに難しい。特に日本人にとっては日常生活と自然との距離がどんどん広がっているように思える。「非日常を身近に楽しむ」という感覚が定着していく、多種多様な自然の楽しみ方の中で自分の楽しみ方が見つけることができていったらその気持ちが自然を大切にし、環境問題の解決につながっていくのではないかと思われる。その原点の身近な楽しみを日本の文化や自然を味わう人々に提案していくような仕掛けづくりが必要なのではないかということである。こどもたちにとって自然は非日常でありながら、同時に受け入れることができる存在であるに違いない。より、多くの子ども達を自然を大切にする気持ちや探究心など培っていくのが大人の役目になるだろう。大人でも子供でも自分自身で自然の楽しみ方を開拓できるのは、ある種の才能という気がする。自然体験やエコツアーは、それができない人が自分に合う楽しみ方を見つける良い機会に活用できると思われる。つきつめて考えていくと澄んだ空気の中に佇む雄大な山やあるいは一面の花畑であったり紺碧の海であったり --と、雑然とした都会の風景や例えば汚染まみれのエリアであったりは、ある意味、自分を取り巻く環境という意味では同列であるとも考えられる。都会で生まれ育った人間にとっては目の前に雄大な景色が拡がっていて、夜になると星が本当に降ってくるような、ある種の圧迫感を感じるほどの音も光も静寂な世界(環境)かえってなじみがないもので落ち着かない場合もあり得る。近くに便利なコンビニがあって、交通機関も発達していて、必要な時には必要な光熱が得られる、そんな便利な環境がその人にとっての自然な場合もあるだろう。また一方で自然が豊かな地域に居住しているひとたちが、以上の文明を欲しがったとして、「自然は貴重な財産なんだから守るべきだ」と便利この上ない環境で暮らしている立場の人間が主張するのもこっけいに感じる側面もある。そう考えると「自然」が「非日常」になってしまった時点でエコツアーがある程度「イベント化」してしまうのはしようがないのではないかとも思える。目まぐるしい都会で生活をしていると、たまには本や写真集などにある「本物の自然」に逃避したくなる場合もあるに違いない。そんな欲望を叶えてくれる場があればそれがどこであろうとでかけてみたくなることもあるだろう。

エコツアーの定義は日本保護協会によると「旅行社が生態系や地域文化に悪影響を及ぼすことなく、自然地域を理解し、鑑賞し、楽しむことができるよう環境に配慮した施設及び環境教育が提供され地域の自然と文化の保護・地域経済に貢献することを目的とした旅行形態」であると述べられている。つまり単に自然を見に行くだけのツアーはエコツアーではないのである。このことをどれだけの人々に認知されているのかとしみじみ思う。

(記・岩松珠美)

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環境ブーム2

「環境保護」とか「持続可能な…」とか、まじめ過ぎて疲れそうなイメージが強い旅行に行きたいと思うかどうかははなはだ疑問が残る。まじめなのは学校や仕事だけで十分で、旅行(遊び)に、そんな面倒を背負う「奇特な人」がどれだけいるか、という話である。いくら環境について考えて欲しいと主催者団体は考えても、参加者がいなければツアーは成り立たない。だから自然から学ぶエコツアー」といった教育的なものより、「荒れ狂う自然に挑戦!」「世界の果てで大発見!」といった、チャレンジ精神や好奇心をくすぐる作戦のほうが魅力的に聴こえるし、今話題の公開中の米国映画、インディジョーンズのような「ワクワク」する冒険に魅かれるに違いない。環境活動家は、「たとえ国内でも、近所の公園でも、何か環境に関する関心を芽生えさせることができたらそれはエコツアーと呼べるんじゃないか。日本のエコツアー会社は海外に目を向けすぎてる。日本にもすばらしいところはたくさんある。学研からでている自然と環境の全資格ガイドを見てみてみるといい。」と述べている。うまりエコツアーは、エコロジーに関する関心を周りの人に投げかけることが本来の目的で企画されるべきものであるというわけである。さらに言い換えると
「エコツアー」は身近なところにいっぱいあると思われる。たとえ道端の花でも、「きれいだな」と思うことができれば、そこから自然の大切さだって学べているはずである。要するに「素敵なコト」を見たい、見つけたいというアンテナをいつも張っていればお金や時間をそれほどかけなくてもエコツアーを見つけて、家族や仲間と楽しめたら、ほんとに最高なのではないかということである。エコツアーがこのままのお金持ちの高尚な特別なものにとどまってしまうか否かはまだまだ未知の印象である。例えばカナダ人のような自然と触れ合うツアーやキャンプを気軽に楽しみ、生活の一部になっている人々はあまり「ヨシッ自然を楽しむぞ」と力をいれたりはしないであろう。それはもちろん自然に目を向ける歴史が長いからだと思われる。そういう意味で日本人のエコツアーは日本人ならではのスタイルで広まっていくのではないかとも思う。日本独自の自然との付き合い方を果たして見出していくことができるのであろうか。
(記・岩松珠美)

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2008年6月25日 (水)

環境ブーム1

本格的な梅雨入りをして、高温多湿の日本らしい、天候が続いている。秋葉原の通り魔事件に続いて、岩手宮城内陸地震が起こり、自然災害の恐ろしさをしみじみと感じている今日この頃である。先日NHK、民放で、長時間のエコ特集番組を相次いで放映し、随分世の中、環境問題に対する啓蒙が積極的になされるようになったものだと感心している。

毎年24時間テレビの夏になると、隣人愛や社会福祉、社会奉仕に関わる良心をお決まりに確認しあうような、お決まりのイベント、お祭りごとにだけは、環境問題はしたくないものだと思っている。

さて、最近の新聞で時々取り上げられているエコ・ツアーなるものをご存知であろうか。エコツアーといっても行政や企業の環境に対する取り組みを見学したり、研修したりするものから、一般旅行社の企画する自然観察旅行のようなものまで、実に幅広い。例えば経済産業省の提唱するエコツアーは、3つのR、すなわちReduce(ゴミの量を減らそう)、Reuse(繰り返し使おう)、Recycle(資源として活かそう)をスローガンに、自動車、家電、容器包装、木材、紙、缶の6つの分野における企業の環境保全への取り組みを実際に公開し、見学する機会を提供している。例えば、缶リサイクルで、コカコーラセントラルジャパンにおいては、工場公開をして、最新鋭の機械と設備、厳しい衛生・品質管理。それらを経て製品ができあがるまでを見学できる。リサイクルへの取り組みは缶(アルミ・スチール)、ビン、ペットボトル、古紙(4分別)を社内の専用分別回収箱で回収しリサイクルを行っている。またペットボトルの再生品(ユニフォーム、容器回収ボックス)など、環境への負荷の少ないグリーン製品の購入も積極的に行っていると紹介されている。またコカ・コーラセントラル ジャパングループ全体では、リサイクルの推進を図るため、缶、ペットボトル、ビン等、素材別に分別することができる施設、江南リサイクルセンターを保有し、近隣地域の使用済み容器の分別再資源化も行っていることをPRしている。分別収集の基本的な教育のためには基本のきの部分として幼い子供にもわかりやすく学習的な要素も含めている印象を受ける。

一方、自然環境保護団体が募るエコ・ツアーはボランティア活動も内在させて、見学、ボランティア活動実践をとおして、環境問題についての一般市民の認識レベルを底上げしようという意図を持ったものが多い印象を持った。エコツーリズム推進法という法律が制定されたこともあって、環境省が全面的にバックアップしている取り組みである。

例えば世界遺産に登録された和歌山県の熊野古道を歩くエコツアーが紹介されている。このツアーは語り部によるエコツアーの実体験、世界遺産地での環境と観光の両立について考えるという旅の目的が明確化されている点が一般の観光旅行と異なる特徴である。熊野古道とされている経路にも総てが自然林というわけではないという話がはじまっている。

圧倒的に杉や檜の人工林が多い中で、熊野那智大社をめざす、請川から小口までの全長約13キロの小雲取越参詣道の途中には広葉樹を主体とする天然林が残っており、里山を彷彿とさせる雰囲気があるとのことである。請川から少し歩くと熊野川の雄大な流れを一望できる場所、さらに歩くと、果てしもない山脈を眺望できる「百間ぐら」に辿りつく。参詣のいにしえ人が艱難辛苦の旅の途中でひと息つき、さりげなく小石でつまれて座す地蔵様に、感謝と祈りの気持ちを伝えている姿を思い浮かべてほしいと語り部は話す。そもそも熊野古道は、熊野三山への参詣道で、全国から現世や死後の御利益を熊野三山の神々にお願いするために、足に血をにじませながら詣でた道であった。世界遺産に指定されたことで、徐々に旅行者は増えているが、中辺路、小雲取越、松本峠などの整備状況もよく、ゴミも落ちていないし、土地の住民も古道を旅する人々を歓迎の気持ちを今のところは示してくれている。送る側、受ける側双方で、環境を護りながら、地域の活性化にもつながるツーリズムを考える必要がある。神社や観光地だけを巡る点から、古道を中心とした線の観光へ、また、物見遊山ではない特別な地という意識で接して欲しいというような話から、自然環境に親しむ基本的なマナーや現代社会に生きる一人の人間として学びとってほしい趣旨が明示されているのが印象的な感じがする。

次回は続けて、様々なエコツアーの実態について話を進めていきたいと思う。

(記・岩松珠美)

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2008年5月29日 (木)

燃料電池の充電―電池のリサイクル その4

前回、充電式電池のリサイクルは、レアメタルという、希少価値の高い金属を取り出して再加工するということが主な利点であるという話をした。ちなみに充電式電池に使われている金属のうち、金は鉱石で取ると1トンあたり5〜10gくらいしか取れない。しかし携帯電話からは200〜300gくらい取ることができる。金の価格は2005年1g1700円くらいだったが、今は3400円と倍くらいになっている。よって、携帯電話を1トン集めれば今なら100万円になる計算である。携帯電話には他にレアメタルとしての銅やコバルトが使われている。今のリサイクル法はまず携帯を焼却させた後に銅製錬にかけてその後電解精錬で金やレアメタルを回収するというのが一般的である。つまり銅鉱石と一緒に精錬にかけてしまうといった感じである。テレビの報道特集番組では携帯の充電池からコバルトを回収すると言った話も出ていた。

燃料電池に限らず、多くの工業製品においてレアメタルは必須の材料だ。石油資源の枯渇に備えて製品化を進めたのはいいが、その結果、レアメタルの使用量が増え、石油枯渇よりも先にレアメタルの枯渇を招きそうな状況下に現代はある。

レアメタルは、Wikipediaによると、非鉄金属のうち、ベースメタル(銅、亜鉛、アルミニウム)と貴金属(金、銀)以外の金属となる。よく聞く名前では、リチウム、チタン、クロム、マンガン、コバルト、ニッケル、ゲルマニウム、バリウム、タンタル、タングステン、白金などである。レアメタルの産出国として中心となるのは、中国である。昨年、中国がマンガンに輸出税を課したおかげでマンガンが高騰している。また希土類において中国は、世界の9割を産出している。中国政府は希土類にも輸出税を課す方向から、ネオジウムが高騰しているらしい。ネオジウムは主に磁石に使うため、モータのコストアップ要因になる。心配なのは、身近ではパソコンのハードディスク、将来的には燃料電池車や電気自動車で使う自動車用のモーターが直撃を受けることが予想される。

電気自動車に使われている燃料電池、充電式電池についての理論はとても難しいので、最近報道されていた「キャパシタ」という次世代電源を例にあげてそのエコ度合いを考えてみることにする。「キャパシタ」は、短時間で充電が可能で、蓄電量(エネルギー密度)は従来の十倍のものが開発されたという。ハイブリッド自動車に搭載している電池と置き換えて使えば、燃費改善につながり、電源の寿命も向上する。ガソリンエンジンと電気モーターを併用するハイブリッド車の電源には現在30キログラム程度の重さのニッケル水素電池が主に使われている。従来の「キャパシタ」を使うと重さ200キログラムになってしまう。今回の成果でニッケル水素電池とほぼ同レベルに軽量化でき、搭載できるようになる。ニッケル水素電池は充電に1時間程度かかる。一方「キャパシタ」は約1分間で充電でき、自動車減速時に発生するエネルギーを電気として効率よく蓄えられる。その分、燃費が改善する。また、普通の電池と異なり、化学反応を伴わず蓄電するため、充放電を数十万回繰り返しても容量が低下せず、寿命が長い。生産から廃棄までに排出する二酸化炭素もニッケル水素電池の五十分の一に抑えることができるという。省エネカー・エコカーの代表がこういったガソリンと燃料電池を併用したこのような様々な種類のハイブリッド自動車である。カタログ上は1Lあたり36kmをうたっているものもあるが実動は20km程度であるらしい。ハイブリッドカーの一般普及というのがどこまで現実味を帯びてきているのかは実感がわいてこないのは果たして私だけではないのではなかろうか。(記・岩松珠美)

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燃料電池の充電―電池のリサイクル その3

充電式電地はなぜ、一次電池とは異なりメーカー側が積極的にリサイクルに乗り出しているのか?という疑問についていよいよ整理してみることにした。

私たちが日頃眼にする小形充電式電池のリサイクル活動は、2001年に施行された「資源の有効な利用の促進に関する法律」(以下『資源有効利用促進法』と略称)に基づき、小形充電式電池の回収・再資源化が義務づけられていることに根拠がある。小型充電式電池を製造しているメーカーが中心となって、20044月より、有限責任中間法人 JBRCを設立し、同年9月には廃棄物処理法・広域認定を申請し、受理されている。

JBRCは登録された全国のリサイクル協力店、協力自治体、リサイクル協力事業者等の回収拠点から、小形充電式電池を無償で回収し、再資源化を推進している。テレビのコマーシャルでもおなじみの矢印を基調にしたマークは、希少資源の有効活用と再利用のために「リサイクルしましょう」という願いを込めて『資源有効利用促進法』で制定されたリサイクルマークである。このマークは充電式電池の本体や、充電式電池のリサイクルボックスなどに印刷されているので、ぜひデジタルカメラや携帯電話の電池を充電する時は、ぜひマークを確認してみてほしい。

充電式電池には、主な材料としてニッケル〔Ni〕やカドミウム〔Cd〕、コバルト〔Co〕、鉛〔Pb〕など希少な資源、レアメタルが使われている。限りあるこの希少な資源をムダなく使うために、リサイクルによる「資源の再利用」は大事な責務を負っている。再利用の例としては、ニッケルと鉄の合金はステンレスの材料として、また、カドミウムは新しいニカド電池の材料として活用されている。ニッケル水素電池はカドミウム負極の代わりに、活物質である水素を吸蔵、放出する水素吸蔵合金負極を用いており、ニカド電池に比して、高エネルギー密度の電池である。密閉型アルカリ蓄電池の一種なので、使用済みのニッケル水素電池をリサイクルすればニカド電池と同様に貴重な資源であるニッケルが再利用できる。

またリチウムイオン電池は負極にリチウムイオンを吸蔵、放出できる炭素を用い、正極にコバルト酸リチウム等を用いた二次電池であるから、ニカド電池などに比べ、電圧や、エネルギー密度が高いなど、優れた特徴を持っている。使用済みリチウムイオン電池をリサイクルすれば、高価で貴重なコバルト等が再利用できる。

最近テレビの報道特集番組で携帯電話からの金、レアメタルの回収について報道されていた。最近は金属の高騰もあってこういうリサイクルにも注目されているのを改めて感じている。(記・岩松珠美)

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燃料電池の充電―電池のリサイクル その2

前回、充電式電池のリサイクルのコマーシャルについて話をした。充電式電池の歴史は意外に古い。1990年頃、ニッケル水素電池やリチウムイオン電池の実用化が日本の三洋電機などによって成功したことが大きな発展のきっかけになった。

 ニッケルカドミウム電池は、緑のマークでおなじみの非常灯、ニッケル水素電池は、人工衛星、電気自動車(ハイブリットカー)、ロボット、電動アシスト自転車、リチウムイオン電池は、パソコン、デジタルカメラ、携帯電話などに広く実用化されている。ニッケルカドミウム電池は、カドミウムの土壌汚染が問題となり、じょじょに敬遠されてきている。歴史的には、イタイイタイ病が有名である。この病気はカドミウムの慢性中毒により腎臓障害を生じ、次いで骨軟化症をきたして骨折をするものである。骨そのものの異常であることから外科的治療は不可能。背骨などの骨折で身体が小さくなってしまうとともに内蔵が圧迫され、わずかの身体の動きでも全身が非常に痛むので、イタイイタイの病名がついた。日本で40年前に社会問題化している。よって、生産にかかるコスト単価は安価であるが充電電池としてもそれ以上の普及はみられることはなく、今日に至った。

 さて、今回は燃料用電池として、利用されていることが多い、ニッケル水素電池について考えてみたい。

 ニッケル水素電池はカドミウムを使わないでもできるので、環境にやさしいと評価されている。身近な製品で例をあげてみると三洋電機のeneloopというものがある。このニッケル水素電池は自然放電を極力抑え約1年放置しても約85%の残存率を持っている。充電された状態で流通し、店頭に並べられ、二次電池でありながらも「買ってすぐ使え、継ぎ足し充電が可能」である乾電池として、マンガン電池などの一次電池にかわる21世紀の新電池として発表されている。 この電池は、従来のニッケル・水素蓄電池と比べて、次のような長所がある。すなわち、長期放置時における自然放電や電圧低下が抑えられている。そのため、充電された状態で販売されている。メモリー効果が抑えられており、継ぎ足し充電が可能である。 約1000回、くりかえし充放電可能である。(従来型は約500回より倍増している)低温環境下でも性能の低下が少ない。ただし、以下のような短所もある。すなわち公称電圧は従来のニッケル水素蓄電池と同じ1.2Vで、一部機器では使用できない。

一次電池の技術改善がほぼ限界に達していると言われ、値段の下がったアルカリ電池と既存のニッケル水素電池の長所をうまく融合して作られており、値段も比較的安いこのような電池が開発されてきたのは、大きな進歩であった。なおメモリー効果とは、まだ電力が充分に残っている状態で補足充電を行うと、補足した電力しか使えず、すぐに電池切れを起こしてしまい、繰り返すごとに電池の寿命が短くなることを指している。

このようなニッケル水素電池は、高出力・高エネルギー密度の電池であると同時に,厳しい使用条件にも対応できること,過充電・過放電にも耐えることができる利点から電気自動車の実用化とすなわちエンジンのハイブリッド車の実現にもつながっている。電気自動車はエンジンではなく電動モーターのみを動力とした自動車のことをいう。電気を使用するため環境に優しいとされているが、現在は航続距離が220km程度と少なく、夜間に充電して昼に近場での移動に使用するというものになっている。また、外見上は現存のガソリン車と殆ど変わりはない。このニッケル水素電池やリチウムイオン電池はメーカーでCMしているように回収が積極的に行なわれている。充電池はなぜリサイクルしようと取り組みが進んでいるのかについて次回話をすすめていきたい。

(記・岩松珠美)

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燃料電池の充電―電池のリサイクル その1

5月に入り、バタバタとしてしまい、連載にブランクをあけてしまい、心から深くお詫びをする所存である。最近テレビのコマーシャルで、充電式電池のリサイクル回収への協力をPRしている。充電式電池は、一般の使用済み電池と一緒に電池回収ボックスに入れないで専用の回収ボックスに入れてほしいという趣旨である。充電式電池の存在はもともとかなり昔から存在することを皆様はご存知であろうか。

 燃料電池の話に入る前に身近にある電池について今回は整理してみたい。まず、家庭で一般的に私たちが懐中電灯などに使っている電池は、一次電池といわれる電池である。これには、安価な、マンガン電池をはじめ、アルカリ電池、リチウム電池などがある。リチウム電池は比較的高価であるが、マンガン電池の最高10倍の寿命があり、カメラのストロボなどに使用されている。これらに対して、二次電池といわれているのが、ある程度の繰り返し充電できて使える電池がニッケルカドミウム(二カド)電池、ニッケル水素電池、リチウムイオン電池である。ニッケルカドミウム電池やニッケル水素電池は充電して約500回は使え、ラジコンなどに使われている。リチウムイオン電池は、携帯電話などに使われている。一次電池は、使いきりタイプであり、燃えないゴミとして捨てるしか、今のところ、方法はない。住んでいる所(各自治体)によって「ゴミの捨て方」が違うので、各市町村の指示にしたがって捨てなければならない。 2005年の使用済みの乾電池は年間約57000トンと推定されており、殆どが一般廃棄物として自治体によって回収・処理されている。大半が野村興産()と東邦亜鉛(株)等で処理されている。その他のものは自治体で、主として不燃ゴミとして或いは焼却後、焼却灰等と一緒に安全に埋め立て処分されている。使用済み乾電池は、環境に大きな影響を与えるものではないと言われている。以前環境への影響が心配されていた水銀は、国内では、マンガン乾電池が1991年、アルカリ乾電池は1992年から使用されていません。(水銀0使用)しかし、資源有効利用の視点から乾電池の使用材料を有効に活用するための処理方法が、主要各国で研究されているが、環境負荷、資源有効利用、エネルギー消費量、経済性など、総合的な視点で見て合理的な処理方法はまだ確立されていない。一般に使い捨て電池に対するリサイクル応用への考え方は、まず環境に対して健全であり、次に資源の再利用が有効に実施出来、さらにその利点がコストに釣り合うという場合において支持できるものと考えている。よって、使い捨て電池に含まれる、マンガンや亜鉛などの再利用に関わる研究も確かに進められているが、今だ実現化していない理由はこれら3つのリサイクル応用の要件総てを満たす方法が確立されていないからであると思われる。家庭用一次電池の回収およびリサイクルの義務付けは、廃棄物の流れから有毒物質を除去するという観点から見れば水銀問題が解決した時点において不要であると考えられてきた。ただし、天然資源を保護するために、電池のリサイクルが環境に対して健全で、安全な形で実施出来、かつ、その利点が少なくともコストに釣り合うのであれば、電池の自主的な回収を支持するというメーカー側の指針が今国際的に出されており、一次電池の回収というのはリサイクル利用を主たる目的としているわけではないことを私たちは理解しておかなければいけないだろう。実際使用済み一次電池回収に関わるプログラムは、第一に自治体によって実施されるべきであるというのがメーカーサイドの考え方なので、一次電池の回収に関わるコマーシャルはオンエアされることはない所以がここにある。廃棄された乾電池中の水銀による環境汚染が懸念されるようになった1980年代より、電池メーカーは破棄された乾電池からの埋め立て地の土壌について検査・実験を定期的に実施し、金属の流出は殆どないことが確認していると言われている。さて、こういった一次電池に対して、充電可能な二次電池について次回話を進めることにする。

(記・岩松珠美)

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2008年4月30日 (水)

新しい燃料を求めて その2

4月末になっても天候不順で、肌寒い日が続いている。エアコンのスイッチも思わず入れたくなる。ふと電気を発電するためにも日本は火力発電に対する依存率というのがまだまだ高いので、「ガソリン自動車から電気自動車と・・」と書き出してみてもあまり意味がないのでは?と自分で自分に問うてみたりする。つまり火力発電は重油やLNG(液化天然ガス)、石炭などの燃料を燃やして、ボイラで高温・高圧の蒸気を作る。この蒸気を使って蒸気タービンの羽根車を回すことで、タービンにつないだ発電機を動かし発電する仕組みなので、電気という燃料そのものをまず得るために石油や天然ガスが主材料になっているということを考えると、まず「電気」を動力源に使うという発想はいいとして、その電気をどう確保するのかということが新たに考えていかなければいけない視点として押さえておかなければならない。

話を前回の「電気自動車」に戻すことにする。地球環境や都市問題など考えると、電気自動車への期待は大きく、環境省では1999年から2002年までの間に地方公共団体を通じて電気自動車を小田原市など手を挙げた自治体を通してモデル事業の一環として一般市民に貸し出し、モニター調査を行うなど、普及に向けた試みもすでに始まっている。また、2001年に小泉総理が2002年から2004年の3年間に一般公用車を優先的に低公害車に切り替え、その中に電気自動車、ハイブリッドカーも含まれたことも報道された。さらに2001年には環境省、経済産業省、国土交通省が低公害車の開発・普及を促進するため、「低公害車開発普及アクションプラン」を策定、2010年までに1000万台以上の電気自動車を含む低公害車の普及をめざすことになった。このように「電気自動車」には社会の注目度は少しずつあがってきている。

では「電気自動車」を動かす動力源となる「燃料電池」についてどんなものかを考えてみたい。自動車用ばかりでなく家庭用などとして最近注目が集まる「燃料電池」であるが、その歴史は意外に古く原理の発見は約200年前までさかのぼるほど古いと言われているには少々驚く。つまり燃料電池は早くその仕組みそのものは立証されてきていたが産業革命を取り巻いて蒸気や火力などのエネルギーがもてはやされる中であまり注目されることはなかったということである。1960年代になって燃料電池の実用化は、宇宙開発という意外な分野で花開くこととなった。宇宙船内で燃料を燃やす方式に比べて排気がクリーンで水しか発生しない燃料電池が、宇宙船の電源用に開発されたのである。発生する水は飲み水として利用できることから、特に有人宇宙船の電源として着目された。そしてアポロ計画ではユナイテッド・テクノロジー社のアルカリ形燃料電池が採用された。3台の燃料電池が搭載されたアポロ13号において酸素系統の故障によって2台の燃料電池が運転不能となり、月面への着陸は断念したものの無事地球に戻って来られたというエピソードは、トム・ハンクスが主演した映画でも取り上げられた。一方宇宙開発用だけでなく、一般用途への開発も進められていった。日本でもほぼ同時期に電力事業や、オフィスビルなどで使われる比較的大容量のリン酸形燃料電池の開発が進められていった。1990年代に入り、自動車用、家庭用、モバイル機器用など個人向け用途の燃料電池開発に加速度がかかってきている。地道ながら少しずつ小型・低コストな燃料電池の開発が進んできたことにより、燃料電池を積んだ「電気自動車」も実用化に向かって前進してきたということがわかる。次に重要になってくるのが「燃料電池への充電」の課題である。次回はこの課題について考えてみたい。(記・岩松珠美)

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新しい燃料を求めて その1

ずっと此のところ高騰を続けてきた原油価格、末端でいうとガソリンや灯油の小売り価格が上がり続けてきていた。そこに41日の暫定税率期限切れを迎え、ガソリン本体の値段が下がったわけではない現状で上乗せされていた税金分を載せる根拠がなくなったので小売価格が下がるという現象が起こった。そしてまた来月早々にこの暫定税率を復活させる法案が国会で審議される。世界情勢を客観的にみて原油価格市場は相変わらず高騰しているし、このままでは地球資源である石油は埋蔵量そのものに残存量に限界があることを知らない人はいないに違いない。また石油の埋蔵量場所も新たに発見される可能性があると思っている人もおそらくおるまい。となると、そもそもガソリンの価格は上がることはあっても下がるということはあり得ないと考えるのが一般的な理に適った考え方の基本ではなかろうか。しかしながら、乗用車に乗る市民は、税金の制度を規定する法案が有効期限切れになったことで、やがては復活するに違いないと思いつつ、淡々と日々生活するところまで、聖人ではないだろう。ではガソリンの価格変動が家計を直撃するという可能性が常に身近にある危険、無防備な現状を回避しておく方策はないものかと思考の方向性を変えてみたらどうであろうか。

 という前置きが長くなってしまったが、石油を精製することでできるガソリンという燃料をなにか違うものに置き換えて確保して、環境にも優しい、車社会も継続できれば、おそらくそれが一番根本的解決に前向きに向かう策の1つとはなるように思う。これはとてもまともな理屈であるが、新しい燃料の実用化が思うように進行してきていないのは何故なのか、どこに問題があるのか、一般市民が理解し、考えていかなければならないことはどんなことなのかをここ数回で考えていきたいと思う。ただし、新しい燃料が実用化されても、道路の保全、確保は必要な問題でそれに対する税金負担について逃れたいという考え方そのものが間違っていると思う。つまり今回の暫定率は異なる燃料が出てきても何らかの形で私たちが負担していかなければならないものだという認識は持っていてほしい。つまり道路整備の受益者である自動車利用者が、その費用を負担する仕組みが道路特定財源制度であるからである。これは鉄道利用者が運賃を支払うのと同じ考え方である。現在、道路を整備する費用の大部分を道路特定財源、すなわち自動車を利用する人の負担でまかなっている。これは、自動車利用者が道路整備の最大の受益者であるからこそ受け入れられているものである。道路特定財源では、燃料や車両の重さ、取得価格によって税金の額が決まるため、自動車利用の大小に応じた額を負担しているわけである。つまり、自動車利用者同士の間でも公平な負担を分配する制度となっていることは知識として今回のガソリン価格の動向問題については理解しておいてほしい。

 ガソリンに代わる新しい燃料としてかなり以前からその応用が考えられてきたのは「電気」であり、電気で動く「電気自動車」である。

機械の内側で動力を得るガソリン車、ディーゼル車は排気ガスが社会問題になってきたのは昨今の問題ではない。排気ガス中に含まれる二酸化炭素、チッソ酸化物などの有害物質が、地球温暖化や大気汚染の源として、社会問題となってきた。環境に負担が少ない車を開発することは、21世紀の環境にとっても、自動車メーカーにとっても重要な課題であり続けてきた。そういう意味で「電気自動車」は、鉛電池、ニッケル水素電池、リチウムイオン電池などの電池にたくわえた電気エネルギーを使って電動機で走行する車である。このため、走行中は排気ガスを出さず、エネルギー効率が高いことから、地球温暖化、大気汚染などといった地球環境への影響がガソリン車などと比べて大幅に減少するといわれている。もちろん電気自動車を走らせる電気を起こす際に発電所で二酸化炭素を出すが、従来のエンジン車より、二酸化炭素の排出は低いということは容易に予測できる。ではなぜ、「電気自動車はガソリン車ほど普及してきていないのか?」という問題を次回、考えていきたい。(記・岩松珠美)

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